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2011年1月28日 (金)

★空心菜のライブ情報/NGの聴歴詐称

 おい!いつまで閑話してんだよ!ということでほらほら。また御無沙汰しちゃったNGです。今日はアーシーでブルーな、B'zも真っ青のアコースチックソウルユニット空心菜のライブ情報をお届けします

★1/30(日)“みじんこライブvol,1”@高円寺みじんこ洞

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  • 出演 空心菜
  • open 19:30 /start 20:00 charge free 1drink
  • 2set 20:00~20:30 21:00~21:30
  • お食事&BAR まんま みじんこ洞
  • 東 京 都 杉 並 区 高 円 寺 南 4 ー 42 ー 6
  • ( JR 高 円 寺 駅 南 口 よ り 徒 歩 2 分 )
  • 03 ー 3318 ー 9338
  • JR高円寺駅 南口より新宿方面のガード沿いの道をまっすぐ2分 左手に自転車駐輪場、手前にファミリーマートの看板が見えたら 右手の細い路地に入って3軒目の1Fです。 (ファミリーマートの看板を過ぎたら行き過ぎです)

 盟友ヤマノハさんが企画してくれたみじんこ洞でのライブ。先日ライブの打ち合わせでみじんこ洞に行ってきましたが、お食事美味いし居心地が最高に良くて、ついつい飲みが盛り上がり終電を逃してしまいましたわ。山さんのジン「So not A! (ソウナッタ)」も置いてあるはず。今回のオーガナイザーヤマミドリネコを要チェックするんや。

http://ameblo.jp/yamamidorineko/

高円寺ギャラリーharuとみじんこ洞のイベントサイトにも情報が載っていますことよ↓

http://haru-art.jimdo.com/

 

 山さんはアンダーグラウンド出版や高円寺界隈で蠢いてオモローな動きを見せているようだ。オモロゲなことをリンクさせてお互い活発に蠢いていこうという決意に満ちたこのライブ。初の2ステージ。というかワンマン!!(笑)です!

空心菜CD出します。音源はマイスペース既発のものをミックス変えて、ボーナストラックでライブ音源入れて。山さんがジャケをやってくれますす。楽しみ~

あと2月はだぶじゃずでもやりますわよ。また詳しくお伝えします。

★2/11(金)空心菜@西荻窪w,jaz

  • 詳細未定
  • LIVE BAR "w.jaz" 
     〒167-0053 東京都杉並区西荻南3-7-6 サンパレス西荻Ⅱ B101
     03-5346-4916

 

 

 B'zがどうしたこうした言ったけど、僕は小学生のころB'z聴いて、中学生のころギター買ってB'z弾いたりして過ごしていたんよね。空心菜の音楽は自分が小学生~中学生くらいの頃に好きだった音楽にどんどん近づいて行っているようだ。

山下達郎とか、

・・・・?近づいてねがったか

久しぶりに動画貼り付けて今日はお別れです。1/30(日)高円寺で僕と握手!30来れない人は全員2/11に西荻窪だぶじゃずで会いましょう。

 

●B’zの7th Bluesから。

突然ブルースと出会い

 

●ポンキッキーズで山下達郎のソウルと出会い

 

●ジョジョの奇妙な冒険でテレンストレントダービーのファンクと出会い

 

●ボニーピンクに一目惚れ?してノーザンソウルと出会った?

上記の動画を合わせると空心菜になります。ならないか。

 

 経歴詐称ならぬ聴歴詐称ですな。上記の音楽を大好きでいっしょけんめい聴いていたのは事実だけど、これらに出会う前にDef-JamのHiphop聴いていた(小学3年生の頃に観た映画メンインブラックのせいである)。そしてプログレッシブロック(というかキングクリムゾン)とマイクパットンに出会っているし(手描きのジャケがカッコイイという理由で借りた)、同時並行で日本語HIPHOPを、ブッダブランドとキングギドラを聴いている。

 そして中学三年生の時聴いたブランキージェットシティとミッシェルガンエレファントによって一気に僕の心はロック一色に染まったのだった。高校時代は。それ以前に聴いていた音楽は総て本物じゃねえ!ポップなんてクソだ!と思って高校時代は聴いていなかったのだが、今振り返ると音楽をやり始める前に聴いていた音楽が現在の自分に最も影響を与えている。

 だから空心菜の音楽性は自分が小学生・中学生くらいに好きだった実はソウルだったりラップだったりしていた曲を演奏しているので自分自身に合っているような気がするのだった。

ちなみに私の人生初レコーディングは実はラップだったのだ。中学生のころ。

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2011年1月 9日 (日)

閑話休題

 「閑話休題」という字面をみるとすごく落ち着きませんか。
というわけで閑話休題。
 
 音楽リハーサル中の休憩時間や、ライブ当日リハーサル終わり本番前のポッカリ空いた時間だったりそういう時間が好きだな
 リハーサルの休憩中やライブ前の空いた時間をいかに余裕かつ楽しく過ごせるかというところに、本番の出来やひいてはもっと未来に出来るの音楽の質が懸かっていると思う。
 休憩時間にはしゃいで話し過ぎたり(よくやります)、別のことやり過ぎてもいけないし(昔は20000Vの楽屋で本気で椅子とりゲームとかやってたな)、かといって黙って集中しまくるというのもかえって疲れる(あと私が黙っているとメンバーが不気味がる)。
やり過ぎずやらな過ぎず、自然体で休憩/本番をスイッチングできるのが理想だけど…
 
…まったくできとらん、、それ以前にライブ前の余裕がさっぱり足らんのだった

 去年2010年にやったライブ、半分くらいは自分のオーガナイズした企画ということもあるけど、いっつもライブ前はてんやわんやして、いい感じで覇気を持って休憩できてなかたように思う。
 
 漫画スラムダンクに出てくる海南の牧のように
 
「ハアハア…ハアハア…
…試合はまだですか!!!」
 
と世紀末覇者風に言ってみたり、

赤木キャプテンのように
 
"……震えが止まらん……!!"
 
とか言って顔をバチバチやるような、そんな余裕が全然なかった。
いかんいかん。

 自分が作ったイベントだからこそ余裕をもって冷静かつファニーに闘志をみなぎらせたりしたいしすべきだ。
とか言ってみたところで村の青年団気質はまだまだ抜けないと思うけど。


もう幾年もちょくちょく一緒にライブをやっている根津幹雄先輩は、NGのメンドクササを心得ていてくれるので、彼がいると割りとリラックスする。

あと去年から一緒に空心菜をやるようになったゲンロウタどんの場合、彼の緊張しているらしい時も
「………あっ。
…緊張してきた……。…
……。」
といった具合なのでゲンロウタを見ていると不意にリラックスする。
 
メンバーの何気ない行動でいい精神状態に持っていけてる時が多い。
ソロライブの時が一番ダメだ。なんか妙にカッコつけちゃうボケ(私のことです)が妙にソワソワウロウロしちゃう。高校生か!修行が足らん!

今年の休憩中の指針は、 

・ライブ前の休憩時間に物販CDを焼かない、ジャケ折らない、人にもそれを頼まない

 
・休憩中に買い物に行かない行かせない

 
・自主企画だからといって休憩中に無闇に人に奢らない傲らない驕らない
 
・休憩中に告知メールを打たない
 
・休憩中にいきなり本番試す新しいアイディアを思いつかない
(これは場合と自分の演奏力によりけりだ、いい方向に行くこともあるし。普段からの練習が肝心。)
 
・休憩中に突然椅子取りゲームを本気でやらない
(やるならやってもいいんだぜ)
 
ということを気をつけようとおもた。

 明日は赤旗先生のプロジェクトのレコーディングである。レコーディング姫初めだ。
やるぞ

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2011年1月 8日 (土)

2011新春blog考② 古本書き込みからの断章

 はてさて、今回blogのことについて考えを巡らせてみたのは、第一に前回書いた「twitterやってたらblog書かなくなりつつある」ということがあったが、第二にユリイカのバックナンバー2005年4号の特集「ブログ作法」を古本屋で購入して読んだこともきっかけになったのだ。

その号の目次は青土社ホームページの『ユリイカ 2005年4月号』を参照ください。

仲俣暁生、栗原裕一郎、鈴木謙介、吉田アミら「はてなブロガー」の座談会から始まり、内田樹、竹熊健太郎などなどそうそうたる執筆陣がブログについて書いておる。

 しかしまあ2005年の時点での文章なので、もちろんtwitterにも触れられてはいないし、竹熊さんも当時はブログを書き始めて3カ月。(竹熊さんのブログ「たけくまメモ」http://takekuma.cocolog-nifty.com/blog/は私も愛読しています)

パソコン通信、BBSとblogの違いについて書かれた文章や、はたまた執筆陣のなかにも「blogとか恥ずかしくないのか!?世間知らずが言いたい放題書くのはどうか!?」と乱暴に要約するとそういう論調、blogを書かない立場からの批判もあって(いや至極もっともですが)、なんちゅうか…もはや5年ひと昔というか、隔世の感は否めないのだ。ただ、ブログサービスが一般的に浸透してきた頃の文章という意味で、今改めてblogをどういう風に扱っていこうかなと考えている私にはとても興味深かった。

 そして古本で購入したために、おそらく前の所持者のものであろう赤ペンによる傍線や書き込みがいたるところにあった。古本にはこういう楽しみがありますね。私は本には書き込まない派なんだけど、ヒトの本に書いた書き込みを読むのが隠れた趣味である。この人はどういう風にこの本を読んだのかな、という痕跡をたどれる隠微な愉しみがある。

というわけで今回はユリイカ「ブログ作法」特集に、見知らぬ前の持ち主が書いた傍線や書き込みを我がblogに載せるという画期的試みを思いついた。

断章のように短く、書き込みや傍線部分を本文の文脈から引っぺがしてお送りします。

 

(黒字部分は傍線による2005/04ユリイカ特集「ブログ作法」本文からの引用、赤字は書き込みです。)

 

_________________________________________________________________________________________________________________________ 

・76年前後は今ネットで本当に多い。はてなの近藤淳也社長(75年生まれ)、「ミクシィ」やってる株式会社イー・マーキュリーの笠原健治社長(75年生まれ)、2ちゃんねる管理人のひろゆき(76年生まれ)もそうだし、GREE株式会社社長の田中良和さんとか(76年生まれ)とか…

↑「74年生まれ」  ITには早すぎバブルには遅れ 

 就活 ・web ・ハガキ

 

・特に自分の関心のある著作が出ないと、読者から死んだことにされてしまうのは作家の宿命

 

・直接フォームに書いてる

 

・僕はエディタで書いたものを貼り付けてます

 

・文章に関しては、もうα版と割り切ってる。β版ですらなくて、バグはあって当然だし

 

・完璧をめざすよりも、むしろ他人が悪口や批判を言えるような隙間をのこしておきたい

 

ライターズ・ハイ的脳内物質みたいなものは、多分出てますね

 

・すごく有名な人か、名無しの集団しか書籍になってない。そのあいだの、無名な人がつけていた日記が作品として面白かったので発見されて行くというルート、つまりブログから新しい作家が登場するというルートが、本当は盛り上がっていくはずだったんだけど

 

・今日特に聞きたかったことの一つは、書き手自身にとって、ネットの言葉と紙媒体の言葉がどれくらい連続してて、どれくらい切れてるのかという「文体」意識みたいな話だった

 

・すげえかっこいい!言葉をオブジェみたいに使ってる!現代詩みたい

 

・ケータイで書いていくときに言葉がオブジェみたいになってしまう現象

 

・言葉がゲシュタルト崩壊を起こして別種のメッセージになってしまう

 

・ブログ以前では、たとえ有名人でもネット上では対等でフラットみたいな認識が作法としてあったんだけど、いまは知名度のヒエラルキーをさらに激化させるようになっていますね。

 

・リコメンド・システムとしての可能性

 

・リスク管理 「私」がどういうことをするかよりも、「私」のやることに対してどういうリスクがあり得るかを想定し、管理していくという。

 

・僕の考えとしては 書いてることが面白かったら認められるというのが理想型ですね。

 

・学者ブログが多いのは、学者が書くのが本業じゃないということの裏返しの事態かもしれないという気がちょっとするんですが。

 

・ブログをやるということがセルフ・プロデュースというか、自分のパブリックイメージをコントロールできる。生存証明にもなるし!

 

・十九からニ十五というような者が、私がニ十年近くやってきた領域で私と対等であろうとするなどどいうのは、図々しい。

↑区分

 

・平安朝女流日記にしたところが、恐らく散逸した多くの女房日記があって、それらは、いわゆる宮廷のゴシップめいたものとして、あらこれはあの人よ、という風に読まれたのだろう。異性への誘いとゴシップというのは、私が「退屈論」で言語の起源として想定したものであり、異性への誘いは抒情詩へと発展し、ゴシップは神話へ、そして物語へと発展し、文藝になっていったのである。

 

・あと数年もすれば、ネット人口は飽和状態に達し、誰もが情報の受け手であり、同時に送り手になる時代がくるだろう。

 

本屋とblog

 

・身辺雑記や宛先のないレヴューがポストされることは稀であり(それならばメーリングリストや掲示板で十分だ)、ブログの可能性はオープンで公的なフィルタリング(介入編集)に求められる。つまり特定の技能をもった一定数の編集者によってではなく、互いが潜在的に無数の編集者として機能しうる場としてブログは注目されている。

 

・デリダによれば人は放っておけばずっと「書き続けて」しまう生き物であり、むしろこの有限性が人を自由にしてくれるわけだ。

 

・かつて「無意識過剰」(浅田彰)と評された「団塊ジュニア」の「ポスト新人類」がブログに多大に依存しているのは面白い。安全で合法的な快楽中毒者(ジャンキー)たちの仮想生活世界。

 

・資本を瓦解させかねない情報=情動労働を資本が禁止するというおなじみの風景である

 

・SAC(stand alone complex)

 

テーマ(theme) 分類について

 

・「コンティニュイティ」の論理性によって雑誌と雑誌が結合していくのである。あえて「コプラ(繋辞)」をもたないことで内容的にフライングしたり、つんのめったり、時にはうずくまったりしながら、雑誌が継続していく。

 

・こうした編集行為が今でいえばblogづくりに近いのだ

・ノーギャラだろうがオモシロイなら参加してくれるという出演者たちと、イベントを最低限維持できる費用を負担してくれる客とのつながり――ぼくはコレを「ノー・ギャランティー・ネットワーク」と呼んでいる――をつくることができれば「持ち出し」にならない程度までのイベントは実現することができるのだ。

 

アジ―ルとしての演技――役者の????

 

・「読むことと書くこと、つまりは存在の崩壊と同時でしかありえない文章体験」

 

・「文章体験」は当事者にとっては「今」生起していることにほかならないのだが、蓮實さんは。その「今」を「どのように把握するかってことなんです、歴史ということより。そして「今」はどこまで遡及可能かということを。それは最低限のことだと思う」(蓮實重彦インタビュー感動の瀰漫と文脈の貧困化に逆らって[聞き手=鈴木一誌] )と発言している。

 

貴族=パトロン 商人 町人 工人 平民 ――全カーストを一人で体現する

 

・「楽しくヌルくやってりゃいい」というものでもない。ここで言いたいのはむしろ逆のことである。ブログの読み書きをとおして、それを楽しい修行と厳しい社交の場とすることができれば、必ずやあなたの知的基礎体力は増強されることだろう。

  

  

_________________________________________________________________________________________________________________________ 

繰り返しになるが、以上の引用文章は私が2005/04ユリイカ特集「ブログ作法」から選んだのではなくて、見知らぬかつてのこの古本の持ち主による書き込みを私がここに移したものだ。ブログというメディアが勃興してきた頃に書かれたものゆえ、今読むとブログを過大評価していたり、あまりに楽観的にとらえていたりするものもあるし、また実感、納得できる文章もある。

 また、本文の文脈から引っぺがして抜いてくると、本来の意味とは違う意味が立ち上がってきたりもしますね。特に本文知らない皆さんにはどう読めるのかしら。断章のいいところね。5年前のITに関する文章でも、切り刻めば違う意味だったり文脈を感じさせうるところはさすがユリイカ。

 全然知らない人の書き込み、言葉の書きぬきからは、その主の姿がなんとなくぼんやり浮かんでくるようだ。想像してみるとちょっと楽しい。

 書き込みをしたかつての持ち主の「これからブログをやるぞ!書くぞ!」という気合いだったり、希望だったり不安がなんとなく露わになってるような・・・(感情移入しすぎか)。

あとこんな書き込みを最後の方のページ余白部分に見つけた。

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店主のお好み

→店主のキャラ立ち

と書いてある。これはどうやらブログサイトのデザイン構想図のようじゃないか。

「店主のお好み」ってめっちゃ沢山ありそうなタイトルですけど。。。

「店主のキャラ立ち」…店主ってそんなキャラ立ちさせるの頑張りますか。まじすか。頑張ってください。

と過去に遡って応援したくなった。

こんな、ユリイカに書き込みまくるような店主はなんの店の店主なんだろうか?

本屋さんとかだったらなんか妥当すぎてイヤダな。

店主ちゅうくらいだからラーメン屋さんとかであってほしい。

資本を瓦解させかねない情報=情動労働を資本が禁止するというおなじみの風景の店内。

客「すげえかっこいい!湯切りをオブジェみたいに使ってる!現代詩みたい」

「食べることとつくること、つまりは存在の崩壊と同時でしかありえないラーメン体験」

貴族=パトロン 商人 町人 工人 平民 ――全カーストを一人で体現する、店主。

そんな店主がやっているラーメン屋のブログだったらめちゃ読みたい。

そして絶対ラーメン食べに行く!店内のメニューの文字がゲシュタルト崩壊したり・・・

 

 

 

・・・すいません、悪意はないんです。

「店主のお好み」だからお好み焼屋とか???

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2011年1月 7日 (金)

2011新春blog考

遅蒔きながらあけましておめでとうございます。NGです。今年もよろしくお願いします。 

 さて11月末にtwitterを始めたところ、案の定というかblogの更新ペースが落ちてきた。この言い訳は既に何度か使っているが、このままでは私のweb上テキスト表現はtwitterの支離滅裂タイムラインに集約されてしまい今風ナウ&ヤング&軽薄呟き素人になっちまわあと危機感を感じた。
 まあ別になってもいいんだけど。
 twitterというメディアは、やってない人からみると
「は?なんで呟くの?意味わかんない。それ面白いの?君寂しいの?…あっ、ごめん…いつも気づけなくて…こんど飲みにいこっか。」
みたいに現代テクノロジー中毒脳内DADA漏れな行為にしかみえない。意味プーである(久しぶりに使ったな)。私もTwitterやってないときはTwitterし続ける奴らをみてマジに意味プーだったのでよくわかる。
mixiとかもやってない人からみると「マジキモい!」の世界だ。
 よく考えたらblogも同様にキモいと思った。
 とはいえblogはmixiやtwitterと比べたら割りとリードオンリーメンバーがアクセスしやすい気がする。
私の知り合いには
「ネット?そんな仮想現実の世界には興味ねえな!!姐さん!今すぐデートしよう!」という猛者や
「ネット?ただのマネゴトだろ?なんの実行力もないな。ゲットーに行って3年揉まれてきな!やっぱ保守だよ。おれ最近目覚めた。明日一緒に靖国神社行かない?」というような猛者が何人かいて、(貴方の周りにもいるでしょう厄介な猛者)彼らはmixiやtwitterに対しては「ケッ!キモ!死ね!」となっているが、
blogに関しては
「あ、…あ、中島くん?blog読んだよお。えへへ。あの話さあ…おもしろいよねえ…えへへ」
なんて何故か照れ笑いで言って結構読んでくれているのである。ありがたい。
(今確実に何人かの読者を敵に回してしまった気がする)
ネット懐疑的ぽい人がblogにはそこまで抵抗感ないのは何故だろうか。
パッと考えると
 
・blogは検索に引っかかりやすい(検索したらヒットしたからさあ…たまたま読んじゃったよ)
・アカウントとらなくても読みやすい。
 

という二点が大きいのではないかと思う。
web論を展開するほどネットに全然詳しくないので個人的感想に終始してしまうが…

今風メディアの謳い文句としては
「情報を"発信する側→受け手側"という一方向的なメディアの時代はオシマイ!これからは情報を相互に発信していく時代よ!」
というようなものがある。twitterなんかはそういう理想にかなり近いメディアなんじゃろけ。
 ところがこの世には「情報は一方的に受けとるだけでええワイ!こっちから発信するなんて考えただけでもゾッとする!!」
というようなジャンルのメディアがある。

 例えば、スポーツ新聞とかワイドショーのような破廉恥的な情報は読むだけならいいけど、相互参加的にこっちのプライベートも暴露して発信するとなるとゾッとするだろう。
(余談だが私の知り合いにはスポーツ新聞的イエローペーパーなプライバシー内容を面白おかしくガシガシ相互にweb上に公開してネットを活性化させようとしている革命的人物もいる。ゾッとするねw)

 こと破廉恥な内容、破廉恥な内容を掘り下げた表現やテキストに関しては、相互参加発信するよりも一方的な情報をある程度時間を置いて咀嚼したほうが情報の内容や質が高まるのでは?と思った。冷却期間を置いて破廉恥から面白いものや意味あるものを抽出するのがええのでわ。
 ネット懐疑的な人が嫌がる部分は、想像するだに"アカウントの取得"の煩雑さとその先に見える破廉恥極まりない"相互参加,相互発信的な場"に対して懐疑的、嫌なんじゃないかなと思った。
おれも嫌だったからという根拠でしかないが…

という訳で、「blogはまだまだROMの人には気軽だ」というおれの一方向的な説によれば有意義なツールだということがわかった。(???)
本当はもうちょっとblogの本質的な面に迫りたかったが(本当かよ)支離滅裂脱線意味プーでスマンすまん。

(次回に続く)

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